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仙台の夜空に降りそそぐ光・二題

<仙台大空襲>

仙台大空襲 (昭和20年7月9日から10日)
  その日、いつもの勝山公園ではなくてその向かいの商業学校の校庭で遊んでいた。 鉄棒で遊んでいたら母が「ご飯ですよー」と呼びに来た。  昭和20年7月9日の夕闇が迫っていた。 灯火管制による黒い布で覆った暗い電灯のもとでいつものように夕飯を食べ、いつものように布団に入った。 

  夜半、たたき起こされた。 何がなんだかわからぬままに、寝ぼけ眼で家から連れ出された。 空襲警報のサイレンで避難する事は再三あったように記憶しているが、この夜は只事ではなかった。 すでにB29が爆音をとどろかせていた。 勝山公園の角に交番がある。 その裏に防空壕が掘られていて、すぐにそこに飛び込んだ。 家から100m足らずの距離だが、そのときにはすでに焼夷弾のうなりと激しい爆発音が聞えてきた。 ここではあぶない、というお巡りさんの指示でその防空壕から出て上杉通りを北に向かう。 途中、普段は入ることの出来ない立派な伊澤平勝さんのお屋敷に避難のために入らせてもらった。 勝山公園を開いた勝山酒造だと聞いていた。 立派な門を入るとうっそうとした木立にはさまれた広い道が奥に通じていた。
 ここでもあぶないという声でさらに北へ向かう。 通りでは、爆弾が落ちるヒューという音で、避難する人たちがいっせいに、持ってきた布団をかぶって地面に伏し、爆発音が収まるとまた駆け出すことを繰り返した。 火の粉が舞っている。 二高(旧制第二高等学校)の横を走り、仙山線のガードをくぐって山に入った。 
  台ノ原である。 背の高い草が茂る坂道を登った。 今はその面影も全くない住宅地となったが当時は山地であった。 そこには大きな探照灯(サーチライト)があり、兵隊さんがB29めがけて操作していた。 我々がその前を通るとき灯を消して目がくらむのを防いでくれた。 夜空に味方の飛行機はなく、高射砲すらなかったように思う。
  少し先の見通しの効く場所でやっと歩を止めた。 仙台の街を見た。 遠くB29の編隊がシルエットとして見えた。 その機影を追うように地上に炎が走っている。 そこに地獄絵が繰り広げられているとは想像も出来ず、まことに不謹慎であるが、その炎の走る街を見て、きれいだなあ、と思ったのだった。 台ノ原の山の上は避難した人たちでいっぱいであったが、呆然と大火災を見ていた。
 不思議なほど山の上は静かであった。
  夏の夜明けは早かったはずである。 B29の機影も消えて山を降りた。 逃げたときに走った道路の周囲が燃えていたためだろうが、敵に見つからないように身を隠しながらという雰囲気で途中の焼けていない家々の庭から庭へとすり抜けながら我が家に近づいて行った。 やっと北四番丁までくると、我が家が見えた。 無事であった。 大人たちの安堵の声に自分もホッとした。 数軒先の、前の晩遊んでいた商業学校の木造校舎の姿は跡形もなく消えていた。 

  叔父達は、町に様子を見に行った。 帰ってから聞くと中心部は全滅であるという。 昨日の昼に通った県庁裏の北一番丁の病院も焼け落ちているという。 その病院の窓からこちらを見ていた入院患者の人たちはどうしたのだろうと思った。 どこへ逃げたのだろうか。 
  東京から疎開して途中入園したホサナ幼稚園は、すでに空襲に備えて閉園していた。 真中に広い遊び場のホールがあって、その周りを部屋が囲むしっかりして格調のある建物だったように覚えている。 解散のお別れ会のときの光景は今も思い出す。 その幼稚園も燃えてしまった。  勝山公園の道に立つと、勾当台通り北四番丁の市電停留所やその先までずっと見通すことが出来るようになってしまった。 


 (追記) この仙台大空襲のページを見て下さった北海道在住の方からメールを頂戴しました。 文中の北一番丁の病院とは、陸軍病院で、メールをくださった方の父上がそのとき病院長をしておられたとのだそうです。 その父上からいつもこの空襲のことを聞いておられたとのことでした。 そして、大変気になっていた、空襲の前日に病院の窓からこちらを見ておられた入院患者さんたちは、なんと避難してみなさん無事だったとのことでした。 こんなにうれしいご連絡をいただいて大変感動しました。 ありがとうございました。

 
(追記2) (2004年5月11日掲載)
この仙台大空襲のページを掲載してから1年半ほど経ちましたが、見てくださった方から、また、すばらしいメールをいただきました。 現在京都の教会で牧師さんをしていらっしゃる方(M氏)からです。氏は仙台の大学をご卒業になられたとのことです。 このふたつの(追記)のすぐ上の部分にある、「ホサナ幼稚園」に関する大変貴重な情報です。 大変詳しいお話をお送りいただきましたが、お許しをいただきましたので、その一部をここでご紹介いたします。
 「格調ある建物だったように覚えている」と、おぼろげな記憶をもとに書いたのですが、実は本当にそうだったのです。 南信(みなみまこと)さんという方が設計者で、この南氏は仙台出身、東大建築科卒、帝国ホテル旧館(明治村に移築)の設計者ライトの弟子だったとのことです。 ホサナ幼稚園(開園は昭和6年)の建物が落成したのは昭和5年12月7日とのことです。南氏は、その後昭和9年、満州に渡り、昭和21年11月に病院船で帰国、療養を続けられましたが昭和26年3月20日に仙台で亡くなられたとのことです。ホサナ幼稚園の仙台北一番丁教会の会員であられたとのことです。
 そしてさらに、衝撃的なことに、幼稚園が焼けたあの空襲で、ホサナ幼稚園の園長で、かつ幼稚園の親に当たる仙台バプテスト教会(後の仙台北一番丁教会)の牧師であられた山田光秀氏夫妻が犠牲とななられたのだそうです。山田牧師は京都バプテスト教会で洗礼を受け、その後、京都で勤めておられた教師を辞めて牧師となるため明治45年5月、日本バプテスト神学校(東京)を卒業し京都教会の伝道師となられ、大正元年10月に仙台バプテスト教会(後の仙台北一番丁教会)の牧師として赴任されて、その後ホサナ幼稚園の園長を兼任されたとのことです。
 台ノ原から見つめた大空襲のあの炎の中で、あの幼稚園の園長先生が犠牲になられたとはとても想像できないことでした。 メールを下さったMさんが最後に書いてくださった「平和の大切さを思います」のひと言に尽きる思いです。 なお、Mさんは現在、亡くなられた園長先生が洗礼を受けられた上記、京都の教会の牧師さんでいらっしゃいます。
 たった2,3行で書いた幼稚園については、これ以上書き加えることがほとんどが出来ないほどわずかな記憶でしかないのですが、実はこれだけの立派な事実、そして大変悲劇的な事実があることを知りました。 
 時を経たためでしょうか。 時代が変わって、存じ上げなかった方々ともこのように心の交流が出来ることを体感したせいでしょうか、とても悲しい話なのに、むしろ満ち足りたような、幸せな気持ちにさえなりました。 当時の仙台の様子をお知らせくださった方が他にもいらっしゃいます。 Mさん、そして、みなさま、ありがとうございます。

            
 焼け跡の天の川 (終戦後1,2年ころ)
  終戦の翌年、すなわち昭和21年の春、小学校に入った。 4月当時はまだ新しい体制が出来ていなくて入学したのは、宮城師範男子部附属国民学校であった。 教科書はあちこちに墨を入れて消してあるのを使っている子もいて、良い紙に印刷された教科書を持っていることがうらやましかった。 兄や姉がいる子だったのだろう。 我々はザラ紙にガリ版刷りだったと思う。 その後すぐ、名前が小学校と変わり、さらに東北大学教育学部附属小学校となった。 今は宮城教育大学附属小学校として同じ北七番丁にある。 戦災も受けず教室の東と西に二つも雨天体操場(控所と言った)を持つ、古いが大きくてすがすがしい校舎だった。 先年訪れてみたが残念ながら見る影もなかった。 コンクリート製の立派な近代的校舎になっていた。 

  学校への行き帰りは、空襲のときに逃げた道である。 二高も焼け落ちて、コンクリート製の煙突だけが瓦礫の中に立っていた。 帰り道に、そこを通ると母がいた。 オオバコを摘んでいるのだった。 当時どこでもそうであったように、まともな食料はなかった。 狭い庭に作ったかぼちゃや配給かあるいはどこからか手に入れたさつまいもが主食だった。 麦ばかりの雑炊に増量のために摘んできたオオバコなどの野草、というより雑草を入れていた。 母はそのために二高跡まで来ていたのだった。 さつまいもはスジばかりで全くまずい。 とうもろこしも硬くて味がない。 今、スーパーに並ぶのと同じ名前ではあるが似て非なるものだった。 進駐軍から放出されて配給された米軍の携帯食を見て異次元の世界と感じたものである。 チョコレートやチーズなど不思議なものが入っていた。 チューインガムは祖母が大事に後までとっておいた。 しばらくして取り出してみたらバリバリになって口に出来るのもではなくなっていた。 しかし、物心ついたときからそんな食べ物ばかりだったから、不思議に自分では嘆かわしいとことと思ったことはなかった。 今、その当時の両親や祖父母の気持ちを思うといたたまれないが。 
  むしろ、もともとはあったのだろうがこんな時代だったから知らずに育ち、少しずつ食糧事情が改善されてきた頃、初めてみた食べものに対する驚きやあこがれ、あきらめなどが複雑に絡んだ当時の自分の気持ちがいじらしく思われる。 何年生のときか覚えていないが、たまに東京から来る父に連れられて行った東一番町の食堂で、カツドンなるものを食べて、この世にこんなうまいものがあるのかと感動し、こんなものをいつも食べている人がいるんだ、と腹立たしく思ったこともあった。

  家には風呂場はあったが、そこは物置になっていて、いつも銭湯に通った。 だいぶ後かも知れないが、その風呂屋さんには「中将湯」なる旗が出ていた。  冬の寒いときの銭湯行きは気が進まなかったが、熱い湯に100まで数えさせられて出てくると、脱衣場もガラス戸を開けないといられないほど体が火照った。 だから帰りは寒風も心地よかったが、家に帰る道の周りは一面の焼け野原であった。 ところどころに焼けた防空壕を利用して住んでいる人もいた。 そんな道で空を見上げると、まさに満天の星で天の川がくっきりと浮かんでいた。 広い空全体がぎらぎら輝いていた。 その後も、そのころの仙台の星空に勝る美しい夜空を見た記憶は殆どない。 昭和39年または40年に登った白馬岳頂上の山小屋で見た恐ろしいまでの星空ぐらいのものだろう。 いやそれ以上の迫力だったかもしれない。  ほとんどが焼け野原となり、焼け残った周辺部の家庭でも、停電や電圧降下で消えかかる40Wの裸電球と終戦の詔勅を聞いたラジオしか電気製品がなかった当時、町にはおよそ明かりといえるものはなくて仙台の町が真っ暗だったからであろう。 

  B29による地獄絵の炎と、その結果おとずれた静寂な焼け跡の空に輝く天の川。 あまりにも激しく残酷な対比であった。 だから子供心に焼きついたのであろう。 その後しばらく続いた戦後の混乱のつらい経験で、「光」に関する大きな記憶は他に思い当たらない。 東京でも広島でも長崎でも、幸い生を得た我々と同世代のひとたちのなかには同じような記憶がかなり残っているのではなかろうか。 
  平和といえる今日だが、輝く天の川を久しく見ていない。 見ることができない。

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