海の街道 その5 転勤のお坊さんが乗った北前船

今回も、寄り道をした。まず、北前船の寄港地であった三国湊を訪ね、さらに、久しぶりの友人たちと周った能登半島の旅で、北前船ゆかりの黒島地区を訪ねた。 

富山の東岩瀬、伏木、石川の金石、橋立、山中温泉など、これまで訪ねた旧北陸道沿いの北前船ゆかりの地には、予想以上に当時の面影を残していただけでなく、想像を越えるような文化の運び手であったことがわかって、驚きの連続であった。今回も、またまた、驚きの出会いがあった。

まずは、黒島地区である。ここは、平成19年に起きた能登半島地震によって大きな被害を受けた。復興した今、国の伝統的建造物群保存地区に指定され、板壁がつくる能登独特の雰囲気を持つ美しい家並みがある。その中の、震災からの復旧工事を終えて公開された角海家を見た。北前船の有力な廻船問屋であり、通りに面した屋敷の表側は、つし二階の漆喰と一階の格子や「サガリ」(霧除け)が、まるで街道にある宿場の町家を思わせる造りで、中も「ミセ」、「中の間」、「座敷」などの雰囲気も各地と共通する部分が多いように見えた。しかし、船の出入りを見張った「望楼の間」、そして「土蔵」横から「セド」すなわち中庭に出ると、土蔵も含めて、すべてが板壁に包まれた建物が並んでいることがわかる。板壁独特の雰囲気を醸し出している。宿場町で感じるタイムスリップとは違う、なにか次元の違いのようなものを感ずる家であり、町である。格子の入った裏門から外を覗くと、そこは海岸である。沖に停泊した千石船からはしけがここに着いたのであろう。

 近くの天領北前船資料館に大きな曳山が2基展示されている。聞くと、能登の他の地域の祭りでは、殆どが、能登独特の「キリコ」が主役であるのに対して、この黒島地区では、「曳山」だという。これも、なんとなく、北前船が運んできた文化の臭いがする。

クルマで走ったルート  赤ライン:初日  青ライン:2日目
(上時国家と伏木は、今回ではなく、以前に訪問)
 
 黒島・角海家 (輪島市天領黒島 角海家パンフレットより)
 
 総持寺祖院 山門

驚いたことというのは、実は、次に案内してもらった「総持寺祖院」のことである。黒島から3キロほどのところにある巨大な寺である。曹洞宗では、同格の二つの本山があって、永平寺と鶴見にある総持寺であると聞いていたから、ここの総持寺は一体何だ、と不思議に思ったのだが、この点については、明治の末に鶴見総持寺ができて本山が移って、ここは、今、元本山という立場であることがわかって了解できた。飛び上らんばかりに驚いたのは、別の話であり、しばらく後のことであった。

 北前船の船主が住む黒島は、地名にあるように、この総持寺の門前町であった。上記、角海家の他にも多くの船主がいたが、たとえば森岡屋は有力な船主で、今もその屋敷が残っているのだが、実はこの森岡屋は、総持寺の御用北前船船主だったというのである。黒島の北前船は総持寺と切り離せない関係にあったのだった。そして、なんと、総持寺の住職は全国から北前船に乗って赴任してきたというのである。そもそも、開祖・道元が目指すものとまったく違う方向である大衆化、俗化に勢力をかけて、永平寺を大伽藍の寺にしてしまったとして、街道をゆく18「越前の諸道」の中で司馬遼太郎が嫌っているのは第三代義介であるが、その義介の門人であった瑩山(けいざん)がこの総持寺を開いたのだった。瑩山禅は各地に広がり、曹洞宗の太祖といわれるようになったのだが、その路線をさらに拡大し大衆化を進めて宗派の隆盛を狙ったのが、その跡を継いだ蛾山(がざん)であった。蛾山が総持寺で拡大策のツールとして使ったのが、実は、北前船だったのである。すなわち、蛾山の門下、五哲といわれるすぐれた人たちが総持寺5院の住職だったのだが、その住職を、全国399ヶ寺から輪番制で呼んで就任させる仕組みに変えた。そして、遠く東北や九州、中国地方などからの輪番住職が赴任するときの交通機関として使ったのが北前船だったというわけである。この仕組みが数百年続いて、5万人の住職や付き人を全国から集めたことになるという。曹洞宗の大衆化、成長戦略にとって実に巧妙で効果的な仕組みだったというわけだ。

 黒島に着いて北前船を降りた住職一行は、黒島の森岡屋で疲れを癒してから、大名行列の格式で総持寺に向かったそうだ。任期はだんだん短くなって、江戸の後期には75日間だったというから、北前船はさぞかし忙しかったことであろう。住職が国許に帰るときには、総持寺で使ってなじんだ輪島塗を土産として持ち帰ったことから、輪島塗が全国に知られるようになったともいわれる。

北前船は大阪と北海道を往復しながら、農産物、海産物、建築用の木材も、庭石も、生活用品などあらゆるものを運んだ。ものだけでなく、ことばも歌も運んだから、まさに文化そのものの運び役だったのであるが、まさか、禅寺のお坊さんまで運んでいたとは知らなかった。これには驚いた。帰って、テレビ番組(「北前船の街道をゆく」-2013/3/18〜3/22 BS朝日)で、見てきたばかりの黒島の家々や総持寺祖院の画像とともに登場した地元の歴史研究家の話によって、このようないきさつを知った。もちろん、総持寺でもらったパンフレットでは、鶴見の総持寺との関係の説明ばかりで、この北前船との因縁にはまったく触れていなかった。またもや、新しい発見であった。

 旧北陸道歩きもゴールまであとわずかである。幕末の旧北陸道のルートは今庄宿から先、柴田勝家が開いた栃ノ木峠越えの道で近江に向かうのだが、今回は、そのルートが開発される前の旧北陸道であり、芭蕉の奥の細道のルートでもあった、木ノ芽峠越えで、北陸道最後の北前船ゆかりの地、敦賀を訪ねてみようと考えているところである。