海の街道 その4 日本一の船主村・橋立に立つ
 海の街道を行く北前船に関心を持って以来、どうしても訪ねたかったのが旧橋立村である。大聖寺宿から街道をはずれて寄り道をした。北前船ゆかりの地である。富山では東岩瀬や伏木で旧北前船主の家を訪ね、前回も金沢に到着後、金石(かないわ)港にある悲運の北前船主、銭屋五兵衛の記念館で、北前船そのものや周辺の文化を勉強した。しかし、大聖寺川河口にある塩屋、瀬越とともに、当時、日本一の富豪村といわれた橋立だから、なんとしても行きたかったのである。

 船主村であるから港に面して屋敷が並んでいるだろうと想像していたが、船主集落は海が見えないところにあった。海の方への見当をつけて歩いてみると、橋立港は入り江にある小さな港と幾重もの防波堤に守られた外港があって、両方とも忙しく漁船が行き交って魚を陸揚げしていた。小さい方を旧港、大きい方を新港と呼んでいるようだ。この旧港も近年になってから爆破で掘削したものとのことである。もともと、橋立には加佐の岬が現在よりも三百数十メートルも突き出していて、船をつなぐのに良い湾があったらしいのだが、1770年代に、大荒れで一夜にして消えてしまったという(高田 宏:日本海繁盛記、岩波新書)。いずれにしても当時は、千石船が入れるような港はなく、北海道への往き帰りの際、北前船は沖に停泊して「はしけ」で人や荷を運んだそうだ。船主にあいさつをし、家族に土産を渡す程度のごく短時間の寄港だったようだ。ある船乗りの嫁さんが妊娠して、姑は嫁を疑ったが、暮れに帰ってきた船乗りが、その覚えがあるといって疑いが晴れたという話もある(前出の岩波新書)。橋立は70隻とも100隻にも及ぶともいわれる北前船を持つ日本一の北前船基地だったのだが、北海道から帰った船は大坂に係留して、船乗りは徒歩で橋立に戻って正月を迎え、春には再び大坂に行くという生活であった。しかし、これは大坂から始まる「買い積み」と呼ばれる商いの都合からであって、橋立に船を泊められないからではなかった。

 一隻の北前船が現在の価値にして年に6000万円から1億円の利益を生んだという。たった300世帯の村に70〜100隻だったから繁栄ぶりはすざましく、藩への支援や学校や病院など公共施設の寄贈で社会貢献を行ったことでも知られる。だが、電信が生まれて情報が飛び交うようになると品物の地域による価格差が小さくなり、また鉄道の開通や大型汽船の登場は致命的で、富と文化を生んだ北前船は、江戸中期から明治中期までのたった200年で幻のごとく消えたのだった。

 国の重要伝統的建物群保存地区に指定された美しい家並みである。石州系の赤瓦、福井県産の笏谷石(しゃくだにいし)の敷石や石垣、そして2階の窓のない壁を下に拡がる形に傾斜させて囲った「包み板」と呼ばれる素朴な板材や板塀がこの橋立の建物の特徴であると、地元の人が教えてくれた。資料館として公開されている旧酒谷長兵衛家は中規模の船主屋敷とのことであるが、立派な大広間や仏間のほか、残された資料も豊富にあり、消え去った北前船の栄華と残された文化を物語る貴重な存在である。他にも旧船主宅が蔵六園などとして残されているが、これらの集落を奥に入って行くと、深い木立の中にわずかに土蔵や荒れ果てた建物の一部と板塀が残るだけの石垣に囲まれた広大な敷地が並ぶ。大聖寺藩の経営に貢献した西出孫左衛門家もその一つである。かつての繁栄が偲ばれるととともに、栄華の果てに訪れた、空しさ、寂しさが胸に響く景色であった。

 泊ったのは、酒谷家系の船主が娘のために建てた家を、北前船の事業をやめるときに、その船の知久、すなわち事務長だった人に譲った家であった。蟹のシーズンには大賑わいという民宿である。朱塗りの太い梁が印象的なオエ(居間)のある家で、奥さんから北前船や橋立の昔と今の話を聞きながら地酒と地元の魚で楽しんだ。
 
 
 橋立で泊った民宿

 橋立の北前船の里資料館では、北前船と山中温泉を結ぶ面白い証拠を見つけた。伏木の北前船資料館:旧秋元家住宅などの北前船ゆかりの施設では、船具や生活用品などとともに、数多くの船絵馬を見てきた。海難事故の多い北前船航路だったから、航海の安全を祈願し、あるいは難破からなんとか帰還できた感謝の気持ちから、地元の神社に奉納されたものである。船の形だけでなく、背景などには描かれた時代の様子や世相も反映していて面白い。
 船絵馬

 しかし、今回見つけたのは「引札」である。これは、現代でいえば「広告チラシ」である。木版や石版、その後の銅板で刷られた多色刷りのビラで内容は多彩である。1683年に三井越後屋が「現金安売掛値なし」と書いて配ったのが始まりとされているそうだ(牧野隆信ほか:「引札の世界」、北前の里資料館)。塩問屋、醤油問屋、呉服、小間物、桶、硯、仏具などあらゆる商品の扱い店が出しているが、特に北前船が運ぶ品物を扱う船問屋の広告が多い。北前船が運んだ荷物は船問屋に販売を依頼するし、品物を買って船に積むときにも問屋が手配するから問屋と北前船の船主、船頭との関係は密接である。だから、たとえば新年のあいさつに、暦入りの引札を船主や船頭に配ったのだろう。流通経路を豊富に持っていますよ、とPRする船問屋の引札は品物の生産者や販売者に配ったものだ。時代とともに、大型の汽船や蒸気機関車まで登場してくるのも面白い。そうした中に、山中、山代、粟津などの温泉旅館の引札があるのだ。北前船がまだ北海道から大坂への帰路を急いでいるころ、あるいは船乗りが大坂から橋立まで歩いて戻るころだろうか、山中温泉の旅館の女将は女中さんを連れて、橋立の船主宅をまわったのだそうだ。このような引札に手拭いを添えて、みなさんが戻られたら今年もぜひウチに来て湯治してください、と頼んだという。なぜか、山中温泉所の引札の一枚には十二単衣姿の貴婦人が描かれている。いつの時代も変わらず、美人画で目を引こうというのだろう。
   
 引札(左:山代温泉 右:小浜港の回漕問屋) 














  その季節、山中温泉は北前船の船頭さんたちで大賑わいだった。客の半分は北前船の衆だったともいわれて、温泉地にとってかけがいのない客だった。船頭さんたちも、仕込んできた各地の民謡を唯一の共同浴場だった総湯で披露ることを楽しみにしていたのだろう。文字通り板子一枚下は地獄だった一年間の航海を終えて、船を大坂の川につないで戻ったときの安堵感、そして、ひと航海で一千両の儲けを稼いだ充実感で、湯船はさぞ賑やかだっただろう。客の浴衣を持って聞き惚れる「ゆかたべ」の少女との掛け合いから生まれたのが山中節だが、このあたりについては、海の街道 その1、その2、その3を参照いただきたい。