この道は旧北陸道なのか、加賀街道か、それとも北国街道なのか
        
 かつては、高田の街道分岐点から三方向、どちらに行っても、みな北国街道だったそうだ。 善光寺方面に向かう道も、柏崎方面へ向かう道、そして、加賀や越前に向かう道のいずれもである。そもそも、近江の鳥居本や関ヶ原で中山道と分かれて、栃ノ木峠を越えて越前、加賀、越中、越後からさらに出羽、津軽半島に至るまで北国街道と呼んだからだが、これでは混乱する。 そこで、善光寺、信濃追分方面へ行く道を善光寺街道、柏崎や出羽方面への道を奥州街道、そして越中や加賀方面への道を加賀街道と呼んで区別したという。

 加賀の殿様の参勤交代の旅は190回にもなったそうだが、江戸と結ぶルートは基本的に三つある。「殿、このたびはどちらから江戸に行かれますか」、「そうじゃのう、北国街道を行こうか」、「??」 ということになる。 そこで、越中から越後に向かう方を北国下街道、越前、近江方面に向かう方を北国上街道と呼んで区別したという。 実際には、親不知の崖崩れや高波による道路決壊、また善光寺大地震などの災害のときなど、例外的な9回以外は、すべて北国下街道、すなわち、越中から越後高田への下街道を通って、善光寺から追分へ、そこで中山道に入って碓氷峠を越えるルート、を通ったとされる。(忠田敏男:参勤交代道中記-加賀藩資料を読む、平凡社ほか)

 今回の旅で、高田から春日山城に寄って、やっと、街道歩きで始めての日本海に達した。 いつものように、できるだけ旧道を歩こうと思い、旧道を地図上に示す唯一の資料ではないかと思われる新潟県教育委員会の 「新潟県歴史の道調査布告書(平成3年発行)」 を図書館で借りた。 ルートを1万2千5百分の1地図上に書き写し、これを頼りに歩いたのだが、旧道には何の標識も案内板もないので、迷いがちであった。 土地の人に旧道のありかを確認したり尋ねることも再三であった。そんなとき、土地の人はみな、旧道のことを 「加賀街道」 と呼んでいた。やはり、加賀街道なのである。鎌倉に向かう道は鎌倉街道だし、善光寺に向かうのは善光寺街道である。東海道や中山道は特別なのだろう。江戸街道とも、京街道とも云わないから。 この 「旧北陸道歩き」 の表現はそのまま続けるが、括弧して (加賀街道) と付け加えることにした。

 しかし、そもそもの 「北陸道」 のことがちっともでてこないではないか、と思われよう。 実は、各県の教育委員会が調査を行ってまとめた「歴史の道調査報告書」は、旧北陸道に関して、我々が見ることのできる、ほぼ唯一といって良いほど貴重な資料であるが、面白いことに、街道名を表すタイトルの表現がいろいろである。 新潟県教育委員会では「加賀街道」、富山県教育委員会では「北陸街道」、石川県は「北陸道(北国街道)」、福井県も「北陸道」である。 これは歴史の道の調査対象が必ずしも江戸期の道だけでなく、古代まで遡ろうとしたことを示しているのかもしれない。 崇峻2年(589年)には、東山道(やまのみち)、東海道(うみつみち)、北陸道(くぬがのみち)の三道と書かれた書き物があり、さらに南海道(みなみのみち)や西海道などが加わって、古代における五畿七道が完成されたという (富山県教育委員会:富山県歴史の道調査報告書-北陸街道-)。すなわち、古代では、北陸道は行政区画のひとつとであって、 若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の国々が含まれていた。 同時に、これらの国を結ぶ道を北陸道あるいは北陸街道と呼んだとされる。 だから、北国街道よりも、加賀街道よりも名前としてはかなり古いことになる。古代まで遡る旅ではないが、いずれにしても、 「北国街道」 の呼び方には広義や狭義があってややこしいから、追分宿から高田宿までのいわゆる善光寺街道を狭義の北国街道とする立場を好んで、鳥居本に向かう広義の北国街道を、ここでは北陸道としたわけである。

 越中から加賀、越前は、わが国屈指の文化を持つ地域であり、また、北前船が立寄る港として、北前船の船主の土地として栄えたところも多く、とても楽しみな加賀街道、いや北陸道である。