北国街道とは
        
 「北国街道」 はロマンを感じさせる。 しかし、北国街道というと、通常、中山道鳥居本宿から長浜、木之本を経て、栃ノ木峠を越えて越前に至る街道を思い浮かべる人が多いようである。 街道の名はさまざまにあり、とまどうが、今回は割り切って、東にあるもう一方の道、中山道追分宿から越後の高田宿までを北国街道と呼び、高田から先、北陸三県経由で近江の中山道鳥居本宿までを北陸道と呼ぶことにする。 トップページの地図に書いたとおりである。

 そもそも、「北国」 とは何か。 金沢の新聞社や銀行の名につけられているから、その辺りのことなのだろうと思いながら、辞書で調べてみると、「北陸道の諸国」 という。 そもそも、街道の呼び方は、しっかり管理された五街道をのぞけば、かなりまちまちで、 この道を行けばどこそこに行ける、という程度の意味で使われたようだ。 だから、同じ街道でも、土地によって呼び方が違うことが多い。 北国、すなわち、加賀や越前に行く道なのだが、越後では高田から西の北陸道を、もっと直接的に加賀道とか加賀街道というらしい。 このような例はいたるところに見ることができる。

 今回の旅の舞台である北国街道は、東にある。 中山道の追分宿から、越後の高田宿までをいうのだが、新潟県教育委員会による歴史の道調査報告書では、さらに高田から日本海岸を北上して、佐渡の金山に渡る出雲崎宿までを北国街道と呼ぶ、とはっきり書いている。 金山からの産物を幕府に運ぶ重要な道であったからか。 高田から西に向かえば北陸道であるが、資料によってはこの北陸道も北国街道といい、さらに調べてみると、現在使われている地図にも、この北陸道の旧道を北国街道と書いてあるものがある。 「西の北国街道」 を北陸道まで延長して含めているのかもしれない。

 追分から高田宿までの北国街道も、単純ではない。 北国往還と呼ばれたり、追分から光寺までを、善光寺街道と呼ぶこともごく普通だったようだ。 ややこしいことに、中山道洗馬宿から、この北国街道の、矢代宿と丹波島宿の間にある篠ノ井追分までの街道を、善光寺街道と呼んだり、北国西街道と呼ぶこともあるようで、呼び名だけではなんとも区別がつけられない状態である。 善光寺参りに使う道はみな善光寺街道なのだ。 今回歩く北国街道そのものも、歴史の変遷の中で、ルートが変わっている。 かつて、この街道は、矢代宿から松代宿などを経て、牟礼宿に至る道、すなわち善光寺を通らないルートが正式だった時代があり、併用されたころもある。 この道は、今、北国裏街道などと呼ばれている。

 このように、何ともわかりにくいのだが、国道何号線だとか、市町村合併でできた何とか中央市だとか、由緒ある地名を放棄してつけたなんとか何丁目など、まったく場所のイメージが浮かばない現代の地名や道路の名称にくらべて、実に味のある混乱である。 遠く、あの山を越えて行けば飛騨に行くことができる、だから飛騨街道というのだ、と聞いて、まだ行ったことのない異国へ思いをめぐらし、遠く夕陽に染まるその山々が、壁として立ちはだかっているように見えて、ただただ眺めながらたたずむ子供たちの姿が目に浮かんでくるではないか。

 そんな原風景に会うことができそうな、そんな北国街道である。