開始日時 | 2013/03/17 06:53:34 | 終了日時 | 2013/03/17 15:49:40 |
水平距離 | 30.70km | 沿面距離 | 30.71km |
経過時間 | 8時間56分06秒 | 移動時間 | 7時間12分37秒 |
全体平均速度 | 3.44km/h | 移動平均速度 | 4.17km/h |
最高速度 | 33.99km/h | 昇降量合計 | 40m |
総上昇量 | 21m | 総下降量 | 19m |
最高高度 | 17m | 最低高度 | 4m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
---|---|---|---|---|---|
START | 06:53:34 | 0.00km | 8m | ||
00:08:59 | 0.63km | 4.2km/h | ↑1m ↓1m | 0.00% | |
金津宿スタート地点 | 07:02:33 | 0.63km | 8m | ||
01:57:28 | 8.72km | 4.4km/h | ↑4m ↓3m | 0.01% | |
船寄の石柱道標 | 09:20:53 | 9.36km | 7m | ||
01:40:47 | 7.18km | 4.2km/h | ↑3m ↓4m | -0.01% | |
稲多・舟橋宿 | 11:36:48 | 16.54km | 5m | ||
01:41:39 | 7.26km | 4.2km/h | ↑6m ↓3m | 0.04% | |
九十九(つくも)橋 | 13:39:15 | 23.80km | 8m | ||
01:36:31 | 6.37km | 3.9km/h | ↑7m ↓6m | 0.02% | |
終点・荒井の一里塚跡 | 15:38:53 | 30.16km | 9m | ||
00:07:13 | 0.54km | 4.4km/h | ↑0m ↓1m | -0.18% | |
GOAL | 15:49:40 | 30.71km | 8m |
2013/03/17 07:02:33
金津大橋から出発
2013/03/17 07:40:41
七曲りの旧道は田の中に消えたが、一里塚だけが碑の奥、田んぼの中に残されている
2013/03/17 07:54:32
親鸞聖人が流されてここを通ったとき、欲深い老婆が所望された団子を聖人に施さず。その後、その団子は石のように硬くなった、という。親鸞上人越前七不思議のひとつ
2013/03/17 08:12:51
天保の大飢饉のとき、福井藩では6万人が
餓死。哀れを誘ったのは振袖を着たり、持っ
た若い娘の餓死だった。これを哀れみ、地蔵
を祀り、振袖を刻み、着せて供養した。この
地にある大関音頭に「関の地蔵さん振袖姿
かたい心がしおらしや」 とある
2013/03/17 08:36:12
鹿の歩いた跡を掘って水路にし、鹿が鳴いた
ところで川を堰とめ、鹿が左右にわかれたとこ
ろで用水の分岐点をつくった。10の郷の畑が
よい水田に変わった
2013/03/17 09:13:55
豊かな水田が広がるところに船寄・長崎宿が
あった。船寄踊りが有名。コシヒカリを作った人、
石墨農学博士の出身地でもある
2013/03/17 09:17:10
2013/03/17 09:20:53
左加賀道とある。ここを船寄宿のチェックポイン
トとした。他に宿場の跡を示すものがないため
である
2013/03/17 11:19:44
福井県教育委員会の調査報告書では、右
の細い道(青い予定ライン)が旧北陸道であ
るとしている。しかし、これは間違いとで左の
広い道が正解という説がある。地元の婦人
に聞いたところ、やはり左が正解とのことで、
そちらを行くことにした(赤の軌跡ライン)
2013/03/17 11:36:48
九頭竜川をわたる九頭竜橋の手前が稲多、
川向こうが公認の舟橋宿である。
2013/03/17 11:39:16
左、上流側遠方に残雪の山並みがある
2013/03/17 13:02:01
家康の次男、結城秀康が北庄城、後の福
井城を築いた。城下の出入り口は七口あっ
たが、もっとも重要だったのは加賀に向かう
加賀口であった。加賀口御門をくぐって加賀
に向かった
2013/03/17 13:31:04
文字通り、呉服の店、仏具の店が多い。シャ
ッターが下りた店が多かったのは、日曜日のせ
いか
2013/03/17 13:39:15
足羽川(あすわがわ)を渡る。ここを福井宿の
チェックポイントとした
2013/03/17 14:17:25
西光寺境内にある。お市の方の木像のある
資料館もある。さんざん探し回ってやっと見つ
けた
2013/03/17 14:36:59
このモニュメント以外になにもない。雰囲気も
なし
2013/03/17 14:40:36
木田から花堂あたりは「たばこ町」といわれた
というそうだが、何故かは不明。専売公社の
工場でもあったのか
2013/03/17 15:15:39
かつて、一面に芦が茂っていた。芭蕉が奥の
細道の旅で、「月みせよ 玉江の芦を刈らぬ
先」を読んで有名になった
2013/03/17 15:38:53
ここを本日の終点とし、福井鉄道の清明駅
からヤドに戻ることにした