開始日時 | 2011/05/17 06:55:31 | 終了日時 | 2011/05/17 11:52:57 |
水平距離 | 16.84km | 沿面距離 | 17.00km |
経過時間 | 4時間57分26秒 | 移動時間 | 3時間51分43秒 |
全体平均速度 | 3.43km/h | 移動平均速度 | 4.26km/h |
最高速度 | 10.98km/h | 昇降量合計 | 373m |
総上昇量 | 187m | 総下降量 | 186m |
最高高度 | 34m | 最低高度 | -33m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
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START | 06:55:31 | 0.00km | 8m | ||
00:08:24 | 0.62km | 4.3km/h | ↑7m ↓2m | 0.81% | |
東岩瀬御旅所跡付近出発 | 07:04:14 | 0.62km | 16m | ||
02:02:35 | 9.41km | 4.5km/h | ↑56m ↓66m | -0.11% | |
下村宿・本陣跡付近 | 09:29:50 | 10.03km | 8m | ||
01:32:57 | 6.34km | 3.9km/h | ↑96m ↓104m | -0.13% | |
小杉宿本陣付近 | 11:34:15 | 16.37km | -16m | ||
00:03:24 | 0.27km | 4.5km/h | ↑19m ↓0m | 7.28% | |
ここが今回の終点 | 11:37:51 | 16.64km | -1m | ||
00:04:23 | 0.36km | 4.0km/h | ↑0m ↓3m | -0.85% | |
GOAL | 11:52:57 | 17.00km | 14m |
2011/05/17 07:02:42
ライトレールの競馬場前から出発点に向かう途中にある
2011/05/17 07:03:20
今日は岩瀬曳山車祭の日だが、まだ町は静かで、若衆が山車にかけた雨除けのシートをはずす作業が進んでいた。今回の最終日である。重い一眼レフと交換レンズを家に送り返すついでに、これまでまったく使わなかった雨具一式も宅配便の段ボールに入れたのだが、未明に激しい雷雨があって急遽持ち歩くことにした。しかし、6時にヤドを出るときには雨も上がり、ライトレールで移動した岩瀬ではもう太陽が輝いていた
2011/05/17 07:04:14
町は祭の装いである。賑やかな祭、激しい祭りらしいので見たかったが、足を少しでも先に進めるために、ゆっくりはしておられない。御旅所跡と思われる付近から最終日のスタートである
2011/05/17 07:33:36
黒部川や常願寺川もそうだったが、大水により、あるいはそのときに運ばれてきた土砂により、この神通川の流れも西へ東へと激しく変わったという。この写真は河口方向を見ているが、右の木々の茂る土手の右に富山港がある。かつて神通川の流れだった場所でもあったらしい
2011/05/17 08:20:46
集落の中で出会ったこの用水は、この後、広大な田園の中を歩くとき、ずっと一緒に流れてくれて、実に楽しかった。なみなみと、しかもかなり早い流れである。測ってみると時速6キロ弱で、急ぎ足で歩くのとほぼ同じであった。全視界を、田植え直後の水田や、緑に輝く麦畑が覆いつくす中で、音も立てずに滔々と流れる用水は、静かな動脈の趣である
2011/05/17 08:27:11
ヨーロッパ的な雰囲気すら感ずる広大な風景に惚れ込んでしまった
2011/05/17 08:29:55
麦畑の向こうの、あの山が、富山の文化を分けていると聞いて来た呉羽丘陵である。あの山を境に、ことばも習慣も、ひとびとの性格まで変わるという。いわゆる「呉東」と「呉西」の文化の境界線である。北陸道は、しかし、呉羽山を遠く離れて広大な平野を進む。だから、東西の文化の交流はは充分に出来たはずだと、やや不思議な思いである。むしろ、この山のすぐ東側を流れる神通川の方が文化の境界となりやすかったのではないか、と思うのだがどうだろう
2011/05/17 08:54:26
「右江戸道」、「左はまみち」と書かれた道標で、神通川の流れが変わったときの影響で、道がここで曲がることになったという。道を管理する「道番」はこの角にある諏訪社がつとめ、住むための「道番屋敷」がここにあったそうだ
2011/05/17 09:29:50
この正覚寺の反対側、斜め向かいに下村宿の本陣跡があったという。街道の面影を予想以上に残す静かで美しい集落である
2011/05/17 09:43:50
このような建物も多い美しい街道である
2011/05/17 09:48:28
集落を出ると、このようなのどかな景色が次々に現れる
2011/05/17 09:58:12
道の中ほどを流れる用水があった。中山道ではところどころにあって、かつての街道では防火のために用水を道の中央に置く、標準的な街道の構造と聞いたが、ここもそうであろうか。北陸道では初めてである
2011/05/17 11:04:23
加賀藩主は右の道を、一般人は左から富山に向かったという
2011/05/17 11:22:44
造り酒屋さんの前にスマートな橋が架けられている
2011/05/17 11:25:29
明治の建物である。黒漆喰壁の土蔵造りで、窓は金属製の防火扉がある。内部にも明治後期の洋風建築様式が取り入れられているとのことだ。現在は射水市小杉展示館として利用されている
2011/05/17 11:34:15
調査資料によると、この手前に本陣があったとされている。案内は何もないが、その跡と思われるお宅で庭木の手入れをしておられる奥さんに聞いたら、何も知らないとのこと。さらにその手前の角には高札場もあったはずなのだが。街道の雰囲気を残す街並みを持ちながら、街道の歴史について伝承されていないことは残念である
2011/05/17 11:37:51
街道を左に曲がるとJR小杉駅である。昼食を、と思ったが、唯一見つけた麺のお店が閉まっていて、仕方なく富山に戻ることにした
2011/05/17 11:44:52
心配した膝は快調であった。腰の重さに悩んだものの、目標だった高岡のひとつ手前まで歩くことが出来てホッとした。この後、富山駅でビールで乾杯し、昔を思い出しながら八尾のそばを楽しんだ。越後湯沢行きはくたか号では、今朝、工場の前を通った岩瀬の銘酒・満寿泉で、もう一度祝杯を挙げた